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ガラス雑学 2

【薩摩切子

幕末のごく短期間に、薩摩藩(鹿児島県)で作られたカットガラ
スの事です。
 
その最大の特徴としては、
・透明ガラスに色ガラスを組み合わせた「被せガラス」を使用し、
 それを当時としては発色が困難とされている、「紅ガラス」を
 色ガラスとして使用していた事。
 
・角度の浅いカットを施し、色ガラスと透明なガラスの境目を
 曖昧にする「ボカシ」と呼ばれる技法を使っていた事です。
 
薩摩藩におけるガラスの製造は、弘化三年(1864年)の事で
27代藩主・島津斉興(なりおき)の代よりスタートしました。  
医薬精錬にガラス器が必要となり、江戸から職人を招いた事
が始まりでした。
 
そして1851年、斉興の長男・島津斉彬(なりあきら)の28代
藩主就任によって、薩摩藩は大きな発展を遂げることとなりま
す。
  
当時の薩摩藩は表高77万石でしたが、支配下の琉球(沖縄)経由で清国との密貿易、奄美大島等
の砂糖キビを独占して大阪で売買し、貨幣鋳造権を利用し琉球通宝や天保銭を盛んに鋳造する等
莫大な利益を蓄積していたと言われています。
 
この経済性をバックに藩主となった斉彬は、富国強兵・殖産興業政策を推し進め、大砲を造るための
反射炉をはじめ、溶融炉、硝子窯など多くの設備を備えた一大工場群を築きました。これらの工場群
はのちに「集成館」と命名され、集成館でおこなわれた様々な事業を総称して「集成館事業」と呼びま
した。
 
薩摩切子は、この集成館事業の中で殖産興業の一環として、大きな工場で製造され、飛躍的な発展
を遂げていきます。
 
作品は将軍や諸大名や他藩への贈答品として珍重され、それに伴って技術もデザインも高度化してい
き、重厚感、高級感、存在感を持ち合わせた芸術品として世界で通用する最高水準に到達していたよ
うです。
 
しかし、安政5年(1858年)、事業半ばにして斉彬が急逝すると、藩の財政整理のため「集成館」は縮
小され、生麦事件がきっかけとなった1863年の薩英戦争で、反射炉を残し工場は壊滅してしまいま
した。
 
薩英戦争で西洋の技術を目の当たりにした薩摩藩は、斉彬の功績を改めて見直し、集成館事業を再開
しました。現在、鹿児島市吉野町磯にある「尚古集成館」(国指定重要文化財)は、この時建てられた蒸
気鉄工機械所跡です。 
  
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争の前後に、薩摩切子の製造技術や伝統は完全に消滅してしま
いました。
薩摩切子がわずか十数年で忽然と終焉を迎えたため、「集成館」で造られた薩摩切子は百三十余点しか
現存していません。鹿児島市の「尚古集成館」や東京・港区の「サントリー美術館」で見ることが出来ます
が、常設展示品は限られたものだけのようで、まさに“まぼろしの美術品”となっていました。
  
現在では、ガラス工芸の関心も高まり、薩摩切子の研究も進められていますが、大阪・天満にあったガラ
ス商社「カメイガラス」の故亀井節治氏が復活のキッカケを作られたようです。文献等を基に研究され、忠
実に復刻し、商品化出来るまでになりました。
 
また、御当地の鹿児島県でも、昭和58年に島津家との間で薩摩切子復元の話が持ち上がり、会社を設
立されています。
これらの結果、美術愛好家に認められて人気に火がつき、瞬く間に高級品として、現在世間に広まってい
ます。
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少し前に購入した、薩摩切子の猪口。
色は、当時の文献には残っているが現存
しない「金赤」です。
八角篭目(はっかくかごめ)のカットに、ホ
レボレしてます。(笑)
これで飲んだ日本酒も、また格別でした。

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