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ガラス雑学 3の1

【ベネチアングラス

イタリア本土から難を逃れた住民達は、リアルト島に
定着します。(右図・緑色の島の真ん中辺りがリアル
ト島です。)
人々は初めは漁業で細々と暮らしを立ていましたが、
次第に製塩業と水上輸送(交易)を発展させていき
ます
 
ベネチア人は、やがて地中海を航行し、アレキサンド
リアやシリア海岸の諸都市と交易を始め、イスラム
世界の物産を運んで来るようになりました。 
 
その中で、アレキサンドリアやアンティオキアで作られ
ていた、華麗なエナメル絵付けのガラス器がヨーロッ 
パ貴族の間で、注目を集めていました。
  
こうした東方の珍貨貴宝を輸入し、莫大な利益を上げ
584年に東ローマ帝国の傘下から独立、以後地中海
の覇権を確立していきます。 
ガラス工芸をやっていない人でも、ベネチアングラス(ヴェネツィアングラス)という名前を、1度は聞いた事
があると思います。「アドリア海の女王」と呼ばれ、一時代を築いたイタリア・ベネチア。
このベネチアの地で花開いた、この不思議なグラスの歴史を紐解いて見ましょう。
 
<初期〜13世紀のベネチアとベネチアンガラス>
ローマ帝国崩壊後の5〜6世紀のイタリアは、フン族やロンバルド族の襲来を受け、混乱の極みに達して
おり、特にイタリア北東部の状況は過酷でした。
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一方、ガラス工芸の分野においても、この時代の状況がだんだん明らかにされてます。
1961年にトルチェッロ島の発掘調査を行った、ポーランドの考古学者により、7〜8世紀頃のガラス工房及
び、その周辺からガラス・モザイク片を発見したと報告されています。
 
当時、このトルチェッロ島が貿易センターの役割を果たしており、 10世紀半頃まで東方貿易港として繁栄し
ていた事から、この工房がベネチアングラスの起源ではないかと推測されています。
また、このガラス工房の形態や技術内容が、イスラム・グラスの最大の中心地であった、アレキサンドリアか
技術導入をしていた事が明らかとなりました。
 
10世紀頃のベネチアは、提督ピエトロ・オルセオーロ二世率いる海軍が、アドリア海にて略奪をほしいままに
していた、クロアチア海賊に勝利し、東地中海の制海権8割を手中に収め、ガラス工芸の中心地であったシド
ンやティルに植民地を作りました。更に1204年に、十字軍との共謀により、コンスタンティノープル(イスタン
ブール)を攻略し、クレタ島、イオニア諸島等、また首都コンスタンティノープルの1/8を領有することになりま
す。
 
更にこの13世紀中盤後半になると、地中海東岸のイスラム世界では各王朝の抗争等があり、政治・経済的
な混乱が増大していました。エジプト・ガラス工芸の最大の庇護者であった、カイロのアイユーブ朝が滅び、イ
スラム最大のガラス産地を擁したアンティオキアのアッバス朝が滅亡。また、中央アジア勢の進攻等があり、
輸入すべきガラス製品が、ほとんど供給されなくなりました。
 
この機会を捉えて、ベネチアのガラス産業は、東方からの商品供給不能を自前で供給すべく、本格的に生産
体制に入っていきます。
1268年にガラス同業組合を結成、その3年後にはガラス職人組合規約制定し、遵守させる事にしたほか、
特殊技法を保護するために、1291年にはガラス職人及びその関係者(家族等)をムラーノ島に強制移住令
を施行しました。
 
魚介類を除くと、産出資源は皆無なベネチアは、当時珪砂、カレットをアンティオキアやシドンから、ソーダ灰は
スペインから輸入しており、その製法が原料に恵まれた国に漏れて、コピー製品を作られる危険性があったた
め、強制移住令を施行したと考えられています。
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