一方、ガラス工芸の分野においても、この時代の状況がだんだん明らかにされてます。 |
1961年にトルチェッロ島の発掘調査を行った、ポーランドの考古学者により、7〜8世紀頃のガラス工房及 |
び、その周辺からガラス・モザイク片を発見したと報告されています。 |
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当時、このトルチェッロ島が貿易センターの役割を果たしており、 10世紀半頃まで東方貿易港として繁栄し |
ていた事から、この工房がベネチアングラスの起源ではないかと推測されています。 |
また、このガラス工房の形態や技術内容が、イスラム・グラスの最大の中心地であった、アレキサンドリアか |
ら技術導入をしていた事が明らかとなりました。 |
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10世紀頃のベネチアは、提督ピエトロ・オルセオーロ二世率いる海軍が、アドリア海にて略奪をほしいままに |
していた、クロアチア海賊に勝利し、東地中海の制海権8割を手中に収め、ガラス工芸の中心地であったシド |
ンやティルに植民地を作りました。更に1204年に、十字軍との共謀により、コンスタンティノープル(イスタン |
ブール)を攻略し、クレタ島、イオニア諸島等、また首都コンスタンティノープルの1/8を領有することになりま |
す。 |
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更にこの13世紀中盤後半になると、地中海東岸のイスラム世界では各王朝の抗争等があり、政治・経済的 |
な混乱が増大していました。エジプト・ガラス工芸の最大の庇護者であった、カイロのアイユーブ朝が滅び、イ |
スラム最大のガラス産地を擁したアンティオキアのアッバス朝が滅亡。また、中央アジア勢の進攻等があり、 |
輸入すべきガラス製品が、ほとんど供給されなくなりました。 |
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この機会を捉えて、ベネチアのガラス産業は、東方からの商品供給不能を自前で供給すべく、本格的に生産 |
体制に入っていきます。 |
1268年にガラス同業組合を結成、その3年後にはガラス職人組合規約制定し、遵守させる事にしたほか、 |
特殊技法を保護するために、1291年にはガラス職人及びその関係者(家族等)をムラーノ島に強制移住令 |
を施行しました。 |
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魚介類を除くと、産出資源は皆無なベネチアは、当時珪砂、カレットをアンティオキアやシドンから、ソーダ灰は |
スペインから輸入しており、その製法が原料に恵まれた国に漏れて、コピー製品を作られる危険性があったた |
め、強制移住令を施行したと考えられています。 |