<狙われたベネチアングラスの技術> |
ガラス工人達の島外脱出の要因として、ヨーロッパ各国がスパイ |
を送り、莫大な報奨金を提供した側面もあるようです。 |
脱出したガラス工人達は、フランスやスペインまたはアルプスの北 |
側に逃げて、各国の領主達の手厚い庇護の下でベネチア様式の |
ガラス製品を作り出していきました(これをファソン・ド・ベニス・グラス |
と呼んでいます)。 |
このように、各国はスパイを放ってムラーノ島の工人の誘致に努め、 |
ベネチアの隠密がそれを防御するという、表面には出ない激烈なス |
パイ戦が繰り広げられていました。 |
<ベネチアングラスの黄金時代> |
16世紀は、ベネチアンガラスの豊かな芸術性と、技法の基づく華麗 |
な名人芸が全面的に開花した時代でした。 |
1530年代には、ダイヤモンドポイント彫りが始まり、その他アイスク |
ラックも考案されました(お世話になりました)。 |
そして16世紀後半には、今日でもベネチアングラスの秘法として伝え |
られている、レースグラスが発明されています。 |
透明ガラスの器体に、乳白色ガラスのレース模様を組み込んで成形 |
するもので、この見事な特殊技法によりベネチアングラスは、依然ヨ |
ーロッパの市場を独占し続けることが出来ました。 |
<ムラーノ島> |
ベネチア本島から北東に1kmの沖合いにあるこの島で、ガラス産業は政府の手厚い保護育成を受けな |
がら、急速にその水準を高め、全ヨーロッパにその名声を広めていきました。 |
14世紀に入ると、ベネチアン・クリスタル(クリスタッロ)と呼ばれる透明感の高いガラスを作り出します。 |
これは、従来のソーダガラスを原料に、消色剤として酸化マンガンを加えたもので、紙のように薄くて |
軽い、自由自在な器形が作り出す事ができたようです。 |
また、エナメル絵付けや色ガラスを使った製品、そしてマルコ・ポーロの帰還によってもたらされた中国 |
の白磁や染付、色絵磁器への憧れから乳白ガラスにエナメル彩色を施したガラス器が生産され、人気 |
を博したようです。 |
しかし15世紀後半になると、オスマン・トルコにコンスタンティノープルを占領され、バスコ・ダ・ガマによ |
るインド航路の発見もあり、貿易での収入に暗い影が落ちてきます。 |
この地中海貿易の失墜による経済的な打撃を補うため、政府は自国生産品の販売に力を入れ、ガラス |
産業に特別なテコ入れを行います。 |
その一端として、ムラーノ島のガラス組合は、ベネチア共和国の最高議会の直接管理下に置かれ、あら |
ゆる便宜と保護、援助が与えられる代わりに、極めて厳しい規律の下で統制されてる事になります。 |
ガラス工人達には島外不出の掟があり、これを破る者は即刻死罪。上手く逃亡しても、ベネチア政府の |
放った刺客によって、暗殺されるか連れ戻されるのが彼らの運命でした。 |
規律を守っている限り、貴族にも等しい身分が保証されていましたが、中には死の危険を冒してまでも、 |
島外逃亡を企てる工人が後を断ちませんでした。 |
15、6世紀のベネチアのガラス工芸は最盛期だったのですが、ここに至るまでの道のりは、相当無理な |
拘束や法令などによって、ガラス工人達を半ば奴隷的存在に仕立て、ただひたすらガラス業に専念させ |
てきた歴史がこのように隠されていました。 |
<17〜18世紀のベネチアングラス> |
17世紀に入ると、スペインを中心とするハプスブルク家の神聖ローマ帝国やイギリス、フランス等が政治・ |
経済の主導権を握るようになり、ベネチアの政治・経済的立場は弱体化していくのですが、これに追従す |
るかの様にガラス産業も下火となっていきます。 |
これらの理由として、 |
1.前述した、ムラーノ島逃亡者達による「ファソン・ド・ベニス」が大量に製作され、ヨーロッパ全土に出回 |
るようになった。 |
2.1612年にアントニオ・ネリ著「ガラス製造法」が刊行され、ベネチアアングラスの秘法がヨーロッパ中 |
に公開された。(但し、レースガラス等1部の技法は公開されていない模様) |
3.イギリスで鉛クリスタルが、そしてボヘミアではカリ・クリスタルが政府庇護の下で開発。これらのグラ |
スが、当時のバロック感覚に合致し、ヨーロッパ宮廷社会に急速に浸透したため。 |
以上が挙げられます。 |
この劣勢を挽回すべく、ムラーノ島のガラス工房ではバロック宮殿に飾るシャンデリアや、宮廷壁面を飾 |
る平面鏡などを製作しました。 |
このシャンデリアと鏡は、全ヨーロッパの宮廷や貴族の城館に飾られ、ベネチア共和国の財源を最大限 |
に潤しました。 |
これに対して各国は、輸入制限や輸入禁止、使用禁止の法令を頻発しましたが、効果はあまり無かった |
らしいです。 |
この様に、鏡のブームは凄まじいものがあり、フランスはその最先鋒でした。そこでルイ王朝の俊腕宰相 |
コルベールは、自国でこの鏡を内作し金の流出を防ぐと共に、逆に鏡の輸出で国庫を潤そうと考え、当時 |
のベネチア駐在領事に、密かにムラーノ島から鏡職人を引き抜くよう特命を与えました。 |
ムラーノ島からガラス工人を連れ出すこと自体、至難の技で、その中でも鏡職人には極めて厳しい監視が |
付けられており、引き抜きどころの騒ぎではなかったようです。 |
しかし、どうにか策を講じてなんと12人もの鏡職人の引き抜きに成功。1664年にフランスに送り込んでい |
ます。 |
これら鏡職人が中心となり、1682年にベルサイユ宮殿の鏡の間が完成します。この時を境に、ベネチアの |
鏡は落ち目になっていく訳ですが、しかしこれほど決定的に国家財源の運命を左右した産業スパイの活動 |
は、史上でも稀な事件であっただろうと思います。 |
18世紀に入ると、自国産業保護のため各国は高率輸入関税を導入したことで、これまでのようにヨーロッパ |
市場を維持していくのが不可能となります。 |
そして、18世紀後半から19世紀初頭には、ナポレオンの大旋風が巻き起こり、ベネチアもその渦の中に飲 |
み込まれてしまいます。 |
1797年、ベネチア共和国はナポレオンによって解体され、さらに10年後の1806年にはムラーノ島のガラス |
職人組合も解散させられ、その長い歴史に一旦終止符が打たれました。 |
ベネチアのガラス産業が、近代ムラーノガラス復興運動によって再び息を吹き返すのは、それから半世紀後 |
のことです。 |
エナメル絵付けのガラス器