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ガラス雑学 4
イタリア半島のベネチアと、反対側の位置にあるジェノバ。
ベネチアとジェノバは、かつて地中海貿易の主導権を争っ
たライバル同士でした。そのジェノバ湾沿いのサヴォーナ
の町から西方へ、約10km程いった所にアルターレという
小さな町があります。
 
この町はかつて、あのベネチアと並ぶガラス製造の中心
地でした。 
最盛期には、至る所にガラス工場が立ち並び、活気に満
ちた町だったのです。
 
このアルターレの特殊性は、職人を国内に留めて輸出産
としてガラスを守ろうとしたベネチアと異なり、強力なギ
ルドの管理の下、職人達の出稼ぎが認められ、ガラス製
造を各地に広めたという点です。
 
言い換えれば、製品を輸出したベネチアに対し、アルター
レは職人を(技術とシステム)輸出していた訳です。
 
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この土地の古い言い伝えによると、11世紀にフランスのノルマンディー地方から、ガラス職人一団が移住
してきて、ガラス作りが始められたと言われており、外部との結婚も可能な限り避けて、永い間に特殊なコ
ミュニティーを形成していたようです。
 
ガラス製造は、数人のチームで行う必要があったので、親兄弟や従兄弟といったファミリーで作業する事
が当たり前とされており、また技法の秘密を守る上からも、ファミリー単位での作業が最善の方法でした。
  
そして、16世紀頃からベネチアンガラスの台頭などもあり、ヨーロッパのガラス産業の情勢が変わり、各地
へのガラス職人の移動が活発に行われるようになります。
 
各国の領主達が、自国内でベネチアンガラスと同じようなものを製造しようと、有能な職人の誘致に乗り出
したからですが、ベネチアは職人達を厳重な監視下に置き、技法を隠蔽していたため簡単に職人を連れ出
すことが出来ませんでした。
 
そこで、高度なガラス製品を作ることが出来た、アルターレの職人に注目が集まりました。
彼らは、15世紀前後に「ガラス合同組合」を結成、4年間の勤労奉仕と、4年間の従弟期間を経たのち、国
外に出て修業を積んで帰ってくる事を義務づけていました。
 
彼等は主に、王侯の宮廷や地方領主の下で、請われるままにガラス器や板ガラス、ステンド・グラスをなど
を作り、自らの技を磨いて1人前の熟練工となって帰還していたわけなのですが、国外にいる間は組合役
員達と緊密な連絡を取り、外国のニュースや新しい技術などを報告する役割も担っていました。
 
このようにアルターレのガラス職人達は、16世紀頃から北に向かい、各地のガラス産業の発達に計り知れ
ない貢献をしました。
フランスやオランダ、イギリスといった、西北ヨーロッパでの新たなガラス製造とその後の興隆は、彼らの
躍によるところが大きいのです。
  
しかし、18世紀に入ると、各国は自国産業保護のため原料の入手が困難となり、アルターレでのガラス製
造は周囲の生産地に押されるようになります。
独自の技術を持っていなかったこと、優秀な職人が流出し続け各国のガラス職人がその技法をマスターし 
たことが衰退の原因だったのかもしれません。
 
細々と運営されていた共同工場も1978年に閉鎖され、アルターレ・ガラスの記憶は、各地に散ったファミ
リーの末裔やこの町の紋章にしか残っていないようです。

【アルターレのガラス職人】

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