| 17、18世紀のイギリスでは、清教徒革命や名誉革命等イギリス史全体において、かなり重要な意味を持 |
| つ時代でした。 |
| そんな歴史的事実と、深く関わりがあったのがジャコバイトグラスです。 |
| 当時のイギリスの中で、そのグラス自体の美しさや素晴らしさだけでなく、グラスそのものがイギリスの歴史 |
| を現在に生きる私達に教えてくれる、そんなグラスです。 |
| 17、 18世紀頃のイギリス史は専門書を参照して頂くとして、このグラスを記述する上で、必要最小限の政 |
| 治・宗教の歴史について触れるところからお話したいと思います。 |
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| 17世紀のイギリスには、すでに議会は存在していました。この議会の決定に、国王も本来は従わなくては |
| いけないのですが、時の国王チャールズ1世は議会を無視した政治を行い、議会と対立しており、1642年 |
| 国王派と武力衝突して内乱となりました。 |
| 議会派はクロムウェルを指導者として国王軍を破り、国王は処刑されます。 |
| この戦いは、議会派の清教徒が中心となっていたため、清教徒革命(ピューリタン革命:1642〜49年)と |
| 呼ばれています。 |
| その後、クロムウェルは共和制を敷いたのですが、結果的には国王の代わりにクロムウェルが独裁政治を |
| するという色彩が強くなり、嫌われ者となりました。 |
| 1658年クロムウェルが死ぬと,1660年には清教徒革命のため亡命していた、チャールズ2世がロンドン |
| に招かれ、スチュワート朝チャールズ2世の王政復古となりました。 |
| 彼には、王位継承者となる嫡子がいなかった事から、後釜には弟のジェームズ2世が1685年に即位しま |
| すが、そのジェームズ2世もまた熱心なカトリック教徒で、カトリック教徒を要職に登用させたりしたため、 |
| またもや議会・国民の反発を受けます。 |
| さらに、カトリック教徒のモディナ公女と再婚し、宮廷はカトリック信仰と新仏政策へと傾いていきました。 |
| ジェームズ2世には先妻との間に、2人の王女メアリーとアンがいました。彼女等はプロテスタントだったの |
| で、2人のうち、どちらかが王位を継承すれば、カトリック専制政治の危険は免れると議会は考え、オラン |
| ダの総督ウィリアム公を新しい王として招き、ジェームス2世をフランスに追い出します。 |
| これが名誉革命(1688)です。 |
| このオランダから来た王ウィリアム3世は、「権利の章典」という議会の権限を規定した法律みたいなもの |
| を発布。こうして、責任内閣制の基礎ができ、現在に至る「国王は君臨すれども統治せず」という原則がで |
| きました。 |
| この様に、イングランドでは名誉革命は進んでいきますが、スコットランドではウィリアム3世とメアリーを |
| 正当な王として認めてない人々がいました。 |
| ウィリアム3世ではなく、フランスへ亡命したジェームズ2世こそがイギリスの正式な王である、と考え支持 |
| した人々をジャコバイトといいます。 |
| ジャコバイトとは、ジェームズのラテン語名(Jacobus)からジャコバイト(Jacobite)と呼ばれ、彼らの活動 |
| は名誉革命から1745年まで時には反乱となって続きます。 |
【ジャコバイトグラス】