このカリガラスが生産可能となったボヘミアのガラス工芸は、当初ベネチアングラスの模倣が多かった |
様ですが、次第にカリガラスの特徴である透明感を武器に、これを生かした技法が使われていきました。 |
主に、グラヴィールやダイヤモンドポイントといった彫刻系技法が主力だったのですが、この技法による |
グラスをヨーロッパ全土に知らしめたのが、カスパー・レーマンと、時の国王のルドルフ2世でした。 |
レーマンは、20歳頃にドイツ・ミュンヘンに出て硬玉彫刻を学び、その後プラハ宮廷に出仕します。 |
そして、ガラスに水晶彫りの技法を使い、ルドルフ2世の肖像を、またテーブルグラスを始めとする色々 |
なガラス器に彫刻しました。 |
このお陰で、水晶彫りの名品と同様な高い評価を受けるようになり、ヨーロッパ中に広がっていきました。 |
そしてレーマンや、その弟子達の活動に触発されて、テーブルグラスにグラヴィールやカットを施すものが |
増え、大きなブームとなっていきました。 |
17、18世紀に入ると、ベネチアがその勢力を失墜し、衰退期に向かっていたためボヘミアン・グラスは、 |
ベネチアングラスを圧倒し、ヨーロッパの上流社会の人気を独占します。 |
特に18世紀に入ってからは、各国からの需要をまかないきれず、周辺諸国の彫刻家まで動員し、グラヴ |
ィール製品の生産に当たったようです。 |
この頃、ボヘミアングラスの工場はヨーロッパはおろか、トルコ、シリア、エジプト、メキシコ、アメリカのボル |
チモアやニューヨークにもあり、販売していたらしいです。もう、世界シェアNo.1ですね。 |
【ボヘミアングラスの衰退】 |
世界シェアNo.1を誇ったボヘミアングラスも、18世紀末より次第に先細りとなっていきます。 |
原因はやはり度重なる戦争と、保護関税、大量生産可能な機械の出現、そしてヨーロッパ各国のガラス工 |
芸の台頭でした。 |
そしてその各国ガラス工芸の台頭の急先鋒となったのが、イギリス/アイルランドのカットガラスでした。 |
クリスタルガラスをベースに、幾何学的なカットを施したガラス類はヨーロッパで爆発的な人気となり、ボヘ |
ミアングラスを市場から追い出し始めます。 |
ボヘミアでも、このイギリス流カットガラスを導入しましたが、これだけでは劣勢を挽回するには至らず、そ |
の後様々な新技術、新商品を開発、市場の回復を図っていきます。 |
【王者を揺るがしたボヘミアングラス】
【ボヘミアングラスの特徴】 | ![]() |
<ゴールドサンドイッチ・グラス> | |
2つの似通ったグラスの間に、エッジングした金箔をはさみ込んだものです。 | |
重ね合わせるガラスは、溶着する方法と接着する方法がありますが、ボヘミアでは | |
透明な樹脂状のニスで接着しています。 | |
18世紀初頭からスタートし、中頃に中断されましたが、タンブラーやワイングラスに | |
応用されています。 | |
<絵付け・ミルクグラス> | ![]() |
フリードリヒ・エガーマンによって生まれたグラスです。 | |
陶磁器の絵付師であったのですが、釉薬を勉強しているうちにそれらがガラス器 | |
にも使えるのでは、と考え、乳白色のガラスにエナメル絵付けをして売り出したとこ | |
ろ、大ヒットしました。 | |
その他エガーマンは、瑪瑙ガラスや黒曜石を模倣したヒアリスグラス、孔雀石を模 | |
倣したジャスパーグラス等を作り出し、これにカットやエナメル絵付けを行っていた | |
ようです。 |
<ウランガラス> | ![]() |
ボヘミアのガラス工芸家フランツ・リーデル(ワイングラスで有名なリーデル社の | |
リーデルさんね)が初めて作ったと言われています。 | |
着色剤として、微量のウランを混ぜたガラスで、黄色や緑色をしています。 | |
このグラスの特徴は、紫外線ランプを当てると黄緑色に蛍光するところです。 | |
当時(今でも?)、こういった蛍光色に神秘性を感じた時代傾向と合致して、人 | |
気を博しました。また、塩化銀やアンチモンを加えた卵黄色のガラスも、人気と | |
なったようです |
<ステイニング> |
ガラスに金属化合物の溶剤を塗布して加熱すると、着色剤の金属成分がガラスの中の成分と交換させる事で、 |
ガラスの表面を着色させる方法です。別名イオン交換法と言われています。銅では赤く、銀では黄色に着色さ |
れます。 |
元々は、イスラムガラスに使われていた着色法で、19世紀にボヘミアで再開発された技法です。 |
被せガラス同様の効果が得られ、カットやグラヴィールが施されています。 |
【19世紀以降のボヘミアングラス】 |
このように、19世紀前半のボヘミアのガラス工芸は、戦争による輸出の停滞や、イギリス、フランス、ドイツ等 |
新たなライバルの出現、保護関税による障害を受けながらも、上記の新技術・新商品、特に色ガラス製造に |
に力を入れ、市場の回復を図りました。 |
その結果、1851年に開催された、第1回万博(ロンドン)で上記技法を用いたボヘミアングラスは高い評価を |
得て、数々の栄誉に輝きました。 |
その後、1900年前後にアールヌーボーの波が押し寄せ、ここでも脚光をあびる事となります。 |
時代感覚を先取りしたそのデザインや精神は、その後の時代のへ転換期(オーストリア・ハンガリー帝国) |
の没落、チェコスロバキア独立)の中でも途切れることなく、現在もなおガラス王国の地位を保っています。 |